2019-12-18
4年間の本音(早川大登)
私が関学サッカー部に入部の意志を固めた背景の一つには、歴代の先輩方が残してきてくださった部員ブログがある。入学する前に、初期の部員ブログから全て読んで、関学サッカー部に惚れ込んでしまった。部員ブログは、部員の4年間のほんの一部のストーリーしか、描かれていない。でも、読んでくださっている人を熱くしてくれるぐらい、関学サッカー部の大学サッカーは熱いもの。関学サッカー部に入部を希望している未来の後輩たちが入学する前に歴代の部員ブログを読んだら、必ず自分の大学サッカーに活かす時がくると思う。
現在、私はAチームのコンダクターを務めて、インカレ中にこの部員ブログを書いている。
4年間を通して、自分の大学サッカーを大きく変えてくれたエピソードは6つだ。
『衝撃的な大学サッカーの幕開け』
①2016年4月7日から関学サッカー部での活動はスタートした。まず、入部するためにランニングチェックを受けた際の衝撃的な出来事があった。当時、監督を務めていた成山一郎前監督だ。ランニングチェックのラストメニューを前に多くの選手が苦しそうに走る中で、成山さんは、僕たち学生に向かって、「赤ビブスの6番、ここ踏ん張れ踏ん張れ!」「お前ら、ここまで乗り越えてきたら、もう仲間だぞー!」なんて声掛けをしてくれていた。その瞬間、私は横目を見て、こいつらが自分の4年間を一緒に高め合っていく仲間なのかって思ったら、心にグッときたことが今でも忘れられない。そして、大変な組織に入ってしまったのを同時に痛感してしまった。そんな熱い感情と不安を抱えて関学サッカー部の4年間がスタートした。
『人の出会いに助けられた』
②入部すると、とりあえずに何がなんだかよく分からなかった。今となっても、どういう感情でサッカーしていたのか分からない。とりあえず、早く夏休みの遠征後のオフで地元の友達と遊ぶことをモチベーションに頑張っていた。サッカーを上手くなってやろうとは思っても、なぜか身体に力が入らなかった。身体を張ったフリをして守備している自分がグラウンドに存在していた。高校時代まで、オフの日もグラウンドでサッカーしていた自分はどこかにいってしまった。そんな自分にがっかりなんて出来ないほど、サッカーに対して熱くなれなかった。それは、何か逆境な立場や自分よりも能力が上の人がいる環境では、弱音を吐いて自分を正当化しようする昔からの人間性があるからだ。私は、両親の勧めで小学生時代に子供相撲大会に毎年出場していた。しかし、試合前から両親に対して、どーせ負ける負ける。って毎年言い続けていた。中学受験でも、どーせ落ちるから。って自分は何か難しいことに対してチャレンジして失敗することが怖くて仕方なかったのだろう。入部して1年後も、チームの中でも、まだ何をしていいのか分からない状況が続いていた。同期が上のカテゴリーの上がっていくことにも、みんな上手いし当たり前だよなって。まだ自分の中で本気になることが恥ずかしくて、勝手に納得させていた。でも、そんな自分を気遣ってくれた先輩がいた。それは、コンダクターの細井優希さん(2017年度卒)だ。2年生に学年が上がっても、パッとしないサッカーを歩むんだろうなって自分の中で、思い込んでいた。でも、細井さんと西田健人さん(2018年度卒)との面談で言われた言葉は今でも忘れられない。「早川みたいな、自信なさそうにプレーしている奴を変えたくて、俺は今年からコンダクターになったからって」その瞬間すごく嬉しかった。関学サッカー部に入部して、自分が人から少しでも認知された経験がなかった。そんな自分を突き動かそうとしてくれた行動と言動に感謝の言葉しかなかった。そこから、自分の中で、何か重りが外れたようにプレーがすごく軽くなった感覚は今でも忘れられない。とりあえず、細井さんのためにプレーすることに夢中だった。試合に勝って細井さんを喜ばすためにプレーしてた。自分の中で、短期的なモチベーションができた。点を決めては、ベンチを見て喜んだ。この時から、大学サッカーが楽しいというか、久しぶりに自分自身でサッカーが楽しくなってきた。そんな楽しい時期と同時にコンダクターMTが始まった。元々、高校時代の付属の大学に進学を考えていて、母校の学生コーチをしようと中学時代からイメージしていた。だから、コンダクターに関して、マイナスイメージはそれ程なかった。だけど、迷っている同期とグラウンドに上がりながら、サッカーを辞めるの一言が怖くて言えないよなって話していたことを覚えている。学年でこの日までにはコンダクターを決定しようと定めた日に、迷っていた同期がコンダクターになることを決断した。しかし、ミーティングの直前で学年リーダーと最終の意思確認の面談をした際に、プレイヤーとして続けることを決断した。自分の中では、中高時代の失敗をもう一度チャレンジする機会と感じて、15分間その場で1人にしてもらい考えて、選手を辞める決断をした。そんな、突然の直感でコンダクターを務めることになった。
『人の想いを繋げたいと感じた瞬間』
③最初の数週間は、自分がどこのカテゴリーに入るのか考える期間をもらった。選手時代にCチームしか、経験してこなかった自分はBチームのコンダクターの役割をあまり理解せずに、練習に向かっていた。当時、大人スタッフがいなかったCチームのコンダクターしか知らない自分は、Bチームのコンダクターの役割に違和感しかなかった。そんな中で、同期でどこのカテゴリーを担うのか話合う機会があった。しかし、自分はどこのカテゴリーでも良いと伝えた。本当はBチームにつきたかったんだろう。でも、自分にはBチームを担当する勇気がなく、自分よりも上手い選手の側で、自分が導いていくイメージが湧かなかったし、正直怖かった。まだ、小学生時代から変わっていない相変わらずの自分がそこにはいた。結局、当時コンダクターの山口嵩弘さんに、全部のカテゴリーを経験したほうがいいとアドバイスをもらって、ちょっとの勇気を出してBチームをやりたいと告げた。でも、やっぱり自分には場違いな場所なんじゃないかって思えてきた。同期の実言(森本)と陽菜(植)は、Bチームに所属していたこともあり、 Bチームのみんなとスムーズにコミュニケーションを楽しそうにしてたし、率先して動いてた。でも、選手時代をCチームで過ごして、周りとあんまり話せない自分は、何もモチベーションがなかった。毎日の練習を淡々と過ごす気分だった。そんなある日、雨の日の西宮浜で練習を始める前に、Bチーム全員に早崎さんが話始めた。以前勤められていたジュニアユースの卒団式に出席してきた際に、感じたことを話されていた。卒団式に出席して、保護者の方々の姿を見て、改めて選手一人ひとりに対して、いろんな人の想いが託されているって。俺もそのような人の想いを感じて責任もって指導していかないといけないって話されていた。この時は、深く自分の中では、整理ができなかった。それから、数日後に、Bチームの選手が救急車に運ばれた時だった。自分は、付添人として帯同することになった。搬送先に、選手の保護者の方が迎えにきた。治療している間に、少しだけ話す時間があった。初対面で、何を話していいのか分からなかった。けど、保護者の方は自分の息子の怪我に関して、熱心に相談してきてくれた。どうしたら、競技復帰できるのか。再発はしないのか。完全に治るのか。自分は、コンダクターになったばかりで、怪我に関して無知な状態だった。勿論、16年間のサッカー人生を通して、誰でもわかるような返答しかできなかったが、少しでも頼ってくれたことが嬉しかった。でも、その場では安心させる返しができない惨めさが自分の心の中で走った。そして、その保護者の方の想いを託された選手をグランドで、支えることができるのは、自分しかいないことを感じた。その時に、早崎さんが話していたことを思い出して、自分のコンダクターの軸に繋がり原動力に変化した。その怪我した選手がアイリーグで競技復帰して、保護者の方が観にきていた試合のピッチを元気よく走っている姿を見れた時は、入部して一番ほっこりした瞬間だった。その瞬間に立ち合えて、コンダクターを務めて良かったと思えた初めての時でもあった。
『どうにかしたかったランニング』
④昨年度のBチームは、アイリーグが終了した日から、ランニングの強化期間に入っていた。前日の18:40の練習で負荷をかけたランニングがあった。翌日、9:00の練習があった。その練習前に、当時1年生で下宿組のやまりょう(山下諒)と豪太(輪木)と話していた際に、ちゃんと朝ごはん食べた?って聞くと2人揃えて食べていないって話す。そんな2人は、自分がタイムを数えているゴールラインを設定タイムギリギリでクリアすることができずに終わってしまった光景だ。他の人からしたら、何気ない光景に見えるかもしれない。でも、自分には忘れられない瞬間だった。本当にもったいないって思った。なんとかしてあげたかった。朝ご飯食べてなくて、ランニングに入れなかった彼らが悪いって思うかもしれない。でも、それだけで見捨てることはしたくなかった。もしかしたら、朝ごはん食べていたら、もっと良いランニングをできたかもしれない。こんなこと考えたら、正直キリがない。でも、こういうちょっとしたところをこだわることができるのがコンダクターの役割じゃないかって思った。今は、周りのスタッフからも過保護すぎる、なんでそこまですんの?って言われる。でも、多くの人がその選手に想いを託している背景を感じたら、放っておいてはいられなかった。
『選手以上の熱量で』
⑤「男の器の差」これは、成山前監督がWeb上での記事で取り上げられていた言葉だ。2014年度インカレの決勝で敗れた際に、相手の監督さんと自身の器の差に関して述べられていた。この記事に読んだ時は、選手時代で特に自分に置き換えることはなかった。でも、今は試合に負けたら相手の自分と同じような立場の人と自分との器の差。こうやって何度も何度も自分に言い聞かせてきた。どうやったら器って大きくなるのだろうか。チームマネージメントなんてできない。知識があるわけでもない。選手は自主練と筋トレをする。でも、自分はサッカーでは貢献しない。選手と同じぐらい自主練するのもありだ。それに、選手はランニングする間、自分はタイムを測るだけ。大声で盛り上げるだけ。じゃあ、自分は何をするのって、選手よりも熱い熱量で、他のチームの同じ立場の人より、異なる視点からアクションを起こすことだった。その時の瞬間は全て何気ないことかもしれない。その時に決して結果に表れないし、何も得られないかもしれない。最後にどこかでいくつもの点が1本に繋がって大きな花が咲くかもしれない。これが自分のもう一つの原動力となった。そこから、自分の中では木の枝のように、アイディアが広がっていった。自分がその場で考えて常に行動していくことが自身の器を一番に大きくしてくれると信じてやってきた。
『どうにかしたかったランニング』と 『選手以上の熱量で』のエピソードを通して、自分がコンダクターとして全うしていく事が確立された。
『最後まで信じたい自分と仲間を』
⑥今シーズンの当初は、関西学生リーグ開幕前の練習試合でも負けが続いていたこと。チームメイトのみんなが、やっぱり今年の関学弱くね?って口挟んでいた。正直、ショックで悲しかった。関西選手権では準々決勝敗退で総理大臣杯にも出場できなかった。天皇杯でも、延長戦で破れてJリーグチームへの挑戦権をあと1つで得ることができなかった。自分でも本当に日本一なんて口にしていいのか分からなかった。でも、チームの目標は「日本一」だ。正直、インカレの準決勝を前にして、ここまできたら失うものなんて何もないかもしれない。でも、自分は目標の「日本一」に対して、向き合うことがすごく最初は怖かった。「日本一」って言葉が。中・高校時代もキャプテンとして、怖くて仲間と向き合えなかった。コンダクターとして、Bチームを担当することの怖さから同期に本音が言えなかった。でも、最後ぐらいは、苦しくて怖い長い道のりだけど、本気で「日本一」に向き合おうって自分の中で言い聞かせてきた。そんな言い続けてきた中で、最近になっても「日本一」になってどうすんの?ってチームメイトに言われた時は、自分も改めてすごく考えさせられた。でも、自分なりにいろいろ考えた。まずは明日の明治大学に勝利して、みんなとサッカーできる時間を一日でも長くしたい、みんなと一緒に居れる時間を3日間延ばしたい。それで最後にみんなと笑えて終われたなら、それは最高だ。それが、切実な願いだ。後輩からしたら、たかが3日間かもしれない。でも、自分には18年間のサッカー人生をかけた3日間だ。お願いだから、まずは明日勝たせてください。それだけの運は積み上げてきたはず。みんなと。最後まで。信じてやり続けたい。
最後に、こんな臆病な自分を熱く強くしてくれた、関西学院大学体育会サッカー部。
ありがとう。
男子チーム 4回生 早川大登