部員ブログ

2021-7-24
鈍感(濃野公人)

今回部員ブログを担当させていただきます法学部2年濃野公人です。初めての機会で何を書こうか非常に迷いましたが私が最近感じたことについて少し書かせていただきます。
皆さんは「鈍感な人」についてどのように思いますか?皆さんの周りにもいると思います。嫌いですよね。私も大嫌いです。ですがこの「鈍感」について、今回は話していきます。
まず鈍感とは何なのか。辞書をひくと、どんかん【鈍感】感じ方がにぶい人。例:「皮肉の通じない鈍感な人」と出てきます。最悪だって思いますよね。ですが私の中でその「鈍感」という言葉に対しての考え方が大きく変わってきました。
私の二つ上にサッカーをしている兄が大学の部員ブログでこんなことを書いていました。「プロという舞台が遠ければ、遠いほど心の近くにプロが存在し、プロという舞台に近づけば、近づくほど心の遠くにプロが存在していた」と。人間は成長するにつれ、この先何が起こるのか、他人からどう思われているのかなど、何かを感じ、何かを考えながら生活するようになります。兄は無邪気にプロを目指していた幼少期とは違い、自分の実力、環境、未来へのビジョン、様々なことを考えた結果、この言葉が出てきたのではないかと思います。これが当たり前です。成長と共に正解を追い求め、失敗の無い道を選択するようになるのが人間です。しかし、私はこれを読んだときに、「いや、わざと子供のままの鈍感さを持つことも大切だな」と感じました。他人にどう思われていようが、この先どんな落とし穴があろうが、未来への不安感や他人からの評価に対する「鈍感さ」をわざと持つことによって、切り開ける道もあるのではないかと。
“本田圭佑”を頭に思い浮かべてください。皆さん、本田圭佑が「W杯で優勝します」と言ったとき、「ACミランで10番をつける」と言ったとき、「レアルマドリードでプレーしたい」と言ったときどう思いましたか?私はこいつアホやと思いました。誰が言ってんねんと。しかし、本田圭佑はそんなこと全く気にしてなかったですし、気づいてすらいなかったです。なぜならあの人は鈍感だから。それがわざとであるのか、もともとなのかはさておき、実際には達成できたものは少ないが、本田圭佑はサッカー界におけるレジェンドと言っても過言ではない選手へとのぼりつめました。
サッカーをやっていない人に分かりやすい例を挙げると、最近では“コムドット”がそうです。「年内チャンネル登録者100万人行きます」をあの当時は大半の人が無理だと言い、アンチコメントで埋め尽くされましたが、余裕で超えてしまいました。さらに200万人行きました。このように成功者である人のメンタリティーには「鈍感さ」が兼ね備えられているのではないでしょうか。「鈍感な人間」こうなってしまうと人間はある意味最強です。誰にも止めることはできないし、何を言っても突き進んでいってしまうから。僕に足りなかったのはこの「鈍感さ」なのではないかと感じました。私は夢をあまり公言したことがありません。なぜなら他人の視線が怖かったから。今でもそうです。他人からの視線を気にして、他人からの評判を気にして生きていました。でも、そんな時間は非常にもったいない。他人にどう思われようが、誰が言ってんねんと言われようが自分を持つことに意味がある。この「鈍感さ」を僕は身につけて夢に向かって突き進みます。その道への第一歩としてまだ恥ずかしさは残りますが書かせてください。

「僕はパリ五輪とW杯に出場します。」

誰が言ってんねんって思いますよね。これをひっくり返すことができるぐらいの実力をつけて、絶対に成し遂げます。皆さんも「鈍感」になってみてはいかがですか?長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。頑張りますので今後とも濃野公人をよろしくお願いします。

2021-7-9
言葉を発する理由(徳澤岳)

2回生の徳澤岳です。このような機会をくださったことに本当に感謝します。自分の拙い文章がどうか誰かに届きますことを切に願います。
今回、私が話したいのは言葉についてです。皆さんの周りにも言葉が溢れているでしょう。家族と話す時、友人と他愛無い会話をする時、秘密を共有したりする時、私達は言葉を使います。何故、私達が言葉を駆使しているのでしょうか?そうしなければ、私達の意図を伝えることができないからです。
人間は、過去から現代において言葉とともに発展した生物です。人間の技術や進歩は人間が言葉を駆使できなければ、その場その場で消えていくものばかりでした。私達の歴史は言葉の歴史といっても過言はないでしょう。
その歴史を刻んだ例として、本や音楽が挙げられます。これらはその時代の人間がこの世を去っても残り続けるもの。それらを私達は全力で守って今世まで繋いできました。清少納言の枕草子なども、その時代ではただの本であったのにも関わらず、今では貴重な文化の歴史を刻むものとして大切に保管されています。言葉というものはそれ程偉大であるということです。
さて、堅苦しい話をし過ぎてしまいました。ここで、私が今回何故のテーマにしたのかについて話していきます。
人間がここまで発達した一因の一つである言葉。私達は本当に扱いきれているのでしょうか。言葉には時代を超えるだけでなく、今、横にいる人達を守る、力を与えることができます。私達はその力を使いこなせているでしょうか?
ペンは剣よりも強しと言います。言葉は敵を倒す大きな武器になるのです。それが自分が与えたものだろうと、他人に与えられたものだろうと。言葉には敵と戦える力を与える力があるのです。
そして、言葉は鎧にもなりえます。小さい頃に母親に「知らない人についていってはいけない」と言われた人が多いと思います。それを聞いた小さい頃の私達は、自然と知らない人にはついて行かないようにします。分かりますか。言葉が鎧となって現れた瞬間なのです。
私達は言葉が武器にもなり、鎧となることに気づけていないのです。私達が持つ1番強大なものに手をつけようとしないのです。
だから、私は言葉を発し続けます。試合中、どんなプレーがあっても全力で褒めます。全力で称えます。言葉が武器となり鎧になることを知っているからです。私の声がチームメイト誰かの力になってくれればいい。そんな気持ちで私は全力で声を出し続けます。
関学サッカー部がこれまで以上に強くなるには、言葉の力は絶対に必要なものになります。
言葉の力を少しでも信じてみたらどうでしょうか?
この言葉が誰かの武器と鎧になりますように。

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