去年、準決勝で明治大学に負けてベスト4でインカレを終えた。その試合が終わると、周りも気にせずたくさん泣いた。こんなに泣いたのはいつぶりだっただろうか。インカレを通して、1試合も出場できなかった情けなさか、準決勝で負けた悔しさか、もう4年生とサッカーができない悲しさか、どの感情がそうさせたのかは自分でも分からない。
去年のチームは「日本一」を掲げて一年間戦ってきた。しかし、その日本一には届かなかった。ベスト4でも凄いという人はいると思うが、OBや大人スタッフ、現役を含む関学サッカー部に関わる人々からしたら物足りないと感じるだろう。では、どうしたら日本一は獲れるのだろうか。この問いを去年一年間、そしてインカレで負けてから考え続けていた。僕は、1年次にBチームに所属し、Iリーグ全国大会で日本一を経験しているものの、これまでAチームが日本一になったのを見たり、経験したりしていない。だから、日本一がどういうものでどれくらいの基準なのかは全くわからなかった。
去年すべてのタイトルを獲った明治大学と最後に戦ったことで日本一のプレー基準を知ることができたと思う。ベンチから見ていても、その差はとても大きいと痛感した。その基準に自分達が達したとして今年日本一は獲れるのか。どの大学もその基準以上を求めて毎日練習に励むと思う。これをやれば日本一になれるという確信的なものはどこにもないし、だれも知らないだろう。
日本一という漠然とした暗闇の中を走るような挑戦をしている中で頼りにできるのは自分しかいない。自分の中にしか測りはない。『昨日の自分を超えること』、これしか僕達が勝つためにできることはないのだと思う。もちろん、勝負の世界は競争であるため、周りと比べないといけない時もあるだろう。しかし、周りと比べるのは自分の現在地を知る時だけでいいのではないかと思う。周りと比べて落ち込む必要はないし、満足する必要もない。それよりも昨日の自分と比べてどうなのかを考える必要がある。誰もが弱い自分をわかっているし、やり続けることができない自分をわかっている。毎日もがき苦しみながら、その弱い自分に日々打ち勝つことが成長と言えるだろう。一本でも多く走る、一歩でも距離を詰める、一本でも多くシュートを打つ、一回でも考える回数を増やす。このちょっとした積み重ねが自分を大きく成長させ、このチームが終わる時に日本一を獲っているのだと信じたい。
人間は考える葦であると言われるように、考えて生きている。考えがあることによって、行動できている。そのため、考えを忘れたら行動できなくなる。日本一になるという考えを私生活のどこまで落とし込めるか。また、一人一人が関学サッカー部の一員であるという意識をどこまで持てるのか。これは、他の誰かが強要するものではないし、できない。自分で考えを忘れないように意識し続けないといけないし、それは必ず行動に現れるだろう。そして、誇れる自分、誇れる関学を創っていきたい。
僕は、関学サッカー部に入って、活動できていることに幸せを感じているし、正解だったと入部当初から思っている。これまで多くの選択肢がある中でその一つを選んで人生を送ってきた。そして、これからもより多くの選択肢の中から選んで人生を歩んでいくが、この世に正解なんてないと感じる。『自分が選んだ道を正解にしていくこと』が大切である。僕自身がより関学サッカー部で活動できたことが正解だったと感じられるように、そして部員全員が関学サッカー部を選んで良かった、正解だったと思ってもらえるように大学最後の一年、僕は覚悟を持って闘う。みんなで日本一を獲ろう。
3年前、プロの世界にいくことが出来なかった自分は、安堵した気持ちと少しの悔しさが入り混じる中、関西学院大学サッカー部に入部した。当時の自分は、先の見えない世界に足を踏み出す勇気がなく、プロを目指しながら滑りの効くチームでプレーしたい、という考えのもと関学を選んだ。
入部した当初はすぐにAチームに上げてもらい、公式戦にも出場することが出来ていた。あの頃は、常に自分のためだけにプレーしていたことを覚えている。自分が良ければそれでいい。自分が出ていなければ、チームの勝敗はどうでも良かった。そんな自分が入学当初、ずっと疑問だったことがあった。それは、”なんで下のカテゴリーの人達がこんなにAチームを応援できるん。なんでスタンドの先輩たちは知らん俺を応援してくれるんやろう。” 関学のエンブレムを背負い、Aチームでプレーする価値を理解できていなかった自分は1年の最後にはBチームに落ちる事となった。当然だった。今思うと、よくこんな選手をAチームで使ってくれていたなと思う。
Bチームに落ちるとすぐにIリーグの全国大会が控えていた。1年間死に物狂いで戦ってきたBチームの思いも知らず、Aチームだった自分は試合に出れると考えていた。しかし、蓋を開ければ、30人にも登録されず、偵察として帯同した。同じタイミングで落ちた青木駿はスタメンで自分はメンバー外。理解に苦しんだ。あの一週間は本当に地獄だった。それでも、与えられた役割は全うしようと、相手のビデオを撮り、帰って慣れない編集を行い、選手に伝える。それの繰り返しだった。チームは見事勝ち進み、日本一を掴んだ。スタンドで泣く4回生の姿を横目で見て、自分は何も感情が出てこなかった。そんな中、ホテルに戻ると、当時試合に出ていた4回生のある2人から、「お前のおかげで日本一になれた。ありがとう。」こんな感じの言葉をかけられた。その時初めて、自分がプレーする以外での貢献の仕方を学んだ。
2回生の1年間は、足首の手術もあり、半年間以上サッカーをすることが出来なかった。あの頃は、コンダクターミーティング(選手を辞めてスタッフになる選手を決めるミーティング)をやっていた事もあり、何のためにサッカーをしているのか。自分にとってサッカーとは何なのか、いやというほど考えた。また自分はこの組織にとってどんな存在価値があるのか。常に試合に出続けてきたサッカー人生において、初めてプレーヤーとしての価値を見失いかけていた。そして当時、サッカー選手を辞めようか一度は考えたが、1人のサッカー選手として、このまま終わってたまるか、という小さなプライドが続ける決断を後押ししてくれた。このプライドがなければ、今Aチームにいることは無かっただろう。今でもこの小さなプライドには感謝している。
そして1年前、怪我から復帰し、勝負の1年と意気込んでスタートしたシーズンだったが、自分のカテゴリーはC1チームだった。初めの頃は、すぐにBチームに上がって、Aチームで活躍してやる、と意気込んでいた。しかし、いつまで経っても声はかからない。そしてIリーグも始まり、試合会場では、かつての仲間から「何でCチームなん?」と聞かれ、返答に困っていた。この4ヶ月間は本当に苦しかったし、辛かった。1回生はどんどんBチームに上がっていってしまう。自分がAチームでプレーしているイメージがどんどん消えかかってきていた。それでも見返してやりたい、Aチームのピッチに戻りたいという気持ちだけで必死に自分を支えていた。そんな中、Aチームのサテライト戦に招集された。当時の自分にとって、この試合に懸けるしかなかった。この試合で活躍してもAチームに上がれるとは思っていなかったが、今の自分を90分間で表現するしかなかった。結果的には、この試合を機に、Aチームへ飛び級昇格することが出来た。それから、およそ2年ぶりにAチームのピッチに戻ることができ、後期の1節目には学生リーグでの初得点も記録した。この時の感情やスタンドの声援、景色は一生忘れる事はないだろう。この頃から、自分にとってプレーする事の捉え方が変わり始めていた。2年ぶりにAチームでプレーした事で、改めて本当に多くの人の支えがあって、今の自分があるんだなと思えるようになった。自分のプレーを通して、自分、そして関学に関わるすべての人たちの心を動かしたい。こんな風に思うようになっていった。
自分にしか興味がなく、マイペースでとっつきにくい自分が、大学サッカーを通して、常に周りを見て、相手の考え、価値観、感情を理解しようとし、人の心を動かしたいと思うようになるなんて、想像もしていなかった。人ってこんなにも変わるものなのかと、びっくりしている。それに加え、先の見えない世界に足を踏み出す勇気がなかった自分が、主将にまでなっている。
関学サッカー部には、多くの部員が所属し、そしてその一人一人にストーリーがある。ずっと思い通りのやつなんて誰1人いない。常に何かと戦いながら生きている。自分自身、この3年間で様々な経験をしてきたが、後悔している時期はどこにも無い。なぜなら、どんなに苦しくても常に考え続け、歩みを止める事はなかったからだ。だから、選手として這い上がることが出来たし、人として変わることが出来た。これこそ大学スポーツの価値だと思う。正直、普通に生活していたらこんな経験絶対にできないし、したくない。なんなら、自ら苦しみに行ってるようなものだとも思う。だけど、大学サッカーの魅力に気づき、関学サッカー部の魅力に惹かれていったから、今も所属し、主将にまでなったんだろうなと思う。
ひとりで生きている奴なんて、どこにもいない。ひとりで日本一を取れる奴なんて、どこにもいない。だけど、まず自分が誇れる人間になろうとしないと、誰も助けてはくれない。誰の心にも響かない。一人一人が自分の価値観や信念に従い、行動し続ける。そしてお互いを理解し合い、その個人と個人が繋がることで輪が生まれる。その輪が大きくなればなるほど、大きな力を生み、大きな成果を得ることができる。関学サッカー部はこんな組織で在りたい。
男子チーム 新4回生 杉山天真