部員ブログ

2020-12-30
老いぼれ4回生…閉幕(徳田竣希)

徳田キャプテンとしての1年間の活動は終了しました。

長いんですけど、読んで欲しいです。

去年のインカレの応援に行ってた時に、熱くテツに俺は来年Bのキャプテンする。Bをおれは日本一に導くからこういうのやりたいねんけどどう思う?とか話してたのが懐かしい。

今シーズンスタートした時も、俺がキャプテンしたいって早崎さんと4回のみんなに伝えた時に、びっくりした表情は、お前できるか?大丈夫か?って思いだったんだろうね。
前から覚悟は決めてたから、テツに話してたからあの時テツは必死に俺の後押しをしてくれてた。Bチームの4回のメンバーをみて、いろんな意味でバランスがいいなって思ったから正直、日本一取れる、強いチームになれるってここで確信した。だからそのためには、俺がキャプテンをする選択しかなかった。

Bチームがスタートした当初はみんなも感じていたと思うけど、相当やばかった。アイリーグで日本一どころじゃない。試合をするごとに何もうまくいかず負けて。結果が何もついてこなかった。
けど、逆に、伸び代だらけのチームってその時は怪我していて、外から見てて思ってた。
ここから日本一にまでチームとして強くなったら相当おれキャプテンとして最強やんって思ってました。

さあ~これからの時にコロナが邪魔をして、
Bチームのサッカーとしての成長を止められた。けど、これも、逆に考えたら、
チーム力上げるチャンス。お互い理解し合えるチャンスって思った。ピッチ内も大事やけどピッチ外でも日本一の行動できるチームでありたかった。
特に下級生はだるいって思われるほど時間を奪ってミーティングを重ねた。正直自分も下級生の頃は、どんなミーティングでも時間の無駄、だるいっておもてたからこそ、出来るだけ何か残るように形を考えてミーティングをやってきた。
自分が大学サッカーで特に関学で感じてた、大人スタッフとの距離感、考えのズレをなくすために、早崎さんと選手のみんなが言い合えるように、コロナ期間でBチームはそこを大切にミーティングしていた。色々とミーティングには、狙いがあったので、みんな真面目にしてくれてありがとう。

コロナ期間を明けると、チームとして活気が溢れていたように感じた。久しぶりのサッカーみんなが楽しんでた。
特に、1年生の存在は時間を経つにつれて増していた。チームに欠かせない存在までなっていた。全国大会でも、1年生の大活躍、おめぇらスーパすぎた。
2回生も時間が経つことに責任感が増してきて、2回生の色が出てきてた。この1年でほんまに色んな意味で成長した学年やなって思うね。
3回生は、シンプルにサッカーが好きなやつが多かった。自主練もしまくって、毎日ちょっとで上手くなろうって姿勢がチームを強くさせていた。チームのためにって熱すぎたよ。来年も熱く闘ってくれたらチームのためになる。絶対に。

関西決勝でB1チームとB2チームでやるのが理想やったけど、B1チームがあと一個のところで負けてしまった。自分の無力さを感じた。選手として、ピッチで自分が日本一に貢献する。サッカー人生をかけて、このチームにかけてたからこそ、負けた瞬間、悔しすぎて、次の日も1日中家に引きこもってた。

B2チームのメンバーに入れる可能性があるって練習に行ったけど、メンバーには、入れなかった。ここで自分の左足で、ピッチに立って日本一を体現することは閉ざされた。キャプテンとして、4回生として、ピッチでプレーで最後は見せたかったからこそ、悔しすぎて逃げ出したかった。全国までの1ヶ月間は、色んな意味で相当苦しかった。

けど、Bチームのみんな、特に、しゅん、ごろう、テツ、かどまには助けられて、「徳田竣希のプレーではなく、徳田竣希の人間力が最後試されてる」って腹を括った。
ここで逃げたしたらダサい男で終わってしまう。カッコいい男で終わらないと自分が許せなかった。

今終わってみて、カッコいい男で終わられているのかは、みんな次第だからわからないけど、みんなのおかげで全国準優勝でBチームは終われました。
終わってみて、早崎さんから、みんなから「竣希がキャプテンで良かった」って心から思う。この言葉を聞いた時に、ここまでやり切ってよかったって安心しました。

今年のBチームは、すごい成長したと思います。自分も含め、最初は不安ばかりのチームでスタートだった。周りからも今年のBチームは弱いねって散々言われた。
悔しかったからこそ、Bチームとして目の前のこと全力に、逃げずに、できることを小さなことでも一つ一つ乗り越えてきたからこそ、日本一まであと一歩のところまでチームとしてこれたんだと思う。みんなの力のおかげ、気づいたらスタートする時に比べると、1人1人が成長して、頼れる存在になってました。

スタートした時に、「Bチームは、他のカテゴリーよりも本気で楽しく、見ている人たちの心を踊らすようなチームを共創する」
こんなチームを作りたい。って思ってたのが、みんなのパワーとひたむきさのおかげで共創できたと思います。ありがとう。

「日本一」を最後取れなかった…来年はこの忘れ物をとってきてほしいです。自分も含め4回生は、この1年全員が口揃えてやり切った。このチームでよかった。最高のチームやったって思ってます。

下級生はこれから、勝負があるスポーツだからこそ、うまくいかないときに、その場から目を背けて逃げ出さないで欲しい。しっかり向き合ってほしい。あくまでベクトルは自分。特に、B1チームは最後、うまくいかなすぎて、どこかで環境とか他人のせいにしたくなってた思うけど、あの経験を活かして、自分と向き合って欲しい。

B2チームのみんなは、目の前で明治が優勝して、喜んでる姿を目の当たりにしたからこそ、この悔しさを来年晴らして日本一を達成してほしい。

共に闘ってくれたBチームの4回生は、ほんまにありがとう。それぞれの想いは、直接伝えたので、みんなのおかげでこの1年やり切れた。こんなに熱い思いでチームのために年間通して、ブレずにやれたのはみんなのおかげ。いい仲間に出会えたよ。

あと、残りAチームは、Bチームの結果を越してくれないと困まります。

2020-12-4
青柳彰真のサッカー人生(青柳彰真)

17年のサッカー人生が終わろうとしている。
静岡県浜松市のちっぽけなグラウンドで、ボールすらまともに蹴れない俺に兄はPKを蹴らせてくれた。蹴ったボールはゴールに吸い込まれ、なんとも言えない快感を得た。その時が僕のサッカー人生のスタートだった。おそらく小さい子供のシュートは入れさせてあげようという忖度だったのだが、俺は決めたんだ!と誇らしげにしていたはずだ。過去のことなんて全て忘れてしまうほどのポジティブ人間なのに、これだけは覚えている。そしてここから親に怒涛のワガママをぶつけることとなった。

香川県で本格的にサッカーを始め、小学生3年生で兵庫県姫路市に引っ越してきた。圧倒的FWとしてチーム得点王だったが、デブですぐ息切れしていたのでGKになった。それが功を奏したのか、奏していないのかは分からないが、関西トレセンに選ばれ、そして僕は死ぬほど天狗になった。チームの仕事になど目を向けず、「俺はサッカーで結果出してんねんから黙っとけよ」くらいに思っていた。恐らく周りの親からは嫌われていたと思う。ごめんなさい。

中学生に上がるタイミングで、親の仕事の関係で名古屋への転勤が決まった。でも、僕はヴィッセル神戸に入団することが決まり、親は母と共に姫路に残してくれた。平日は毎日学校に迎えにこさせ、駅まで送ってもらい、土日は毎回車で神戸まで送ってもらっていた。ある日一度渋滞に巻き込まれ遅刻したとき、僕は親に死ぬほどキレた。覚えていないが、手を出したのか、お金を請求したのか、とにかくキレた。それ以降、集合時間の1時間前までに現地に着くように言い、パーキングエリアさえ寄るなと言った。免許を取った今わかるが地獄だ。それでも、文句一つ言わず母は送り迎えをしてくれ、大事な試合には家族総出で応援に駆けつけてくれた。

高校は、親が推していた関学高等部に入学。環境の変化に戸惑い「親がいけと言ったから」と言い訳している自分がいた。ただならぬ学費を払っていることなんて考えたこともなかった。母が家にいるありがみも分からず外食ばかりしていた。高校サッカーの集大成である選手権が近づいていた頃、今でも鮮明に覚えていることがある。高校サッカーが後数試合で終わる中で僕は母にキーパーグローブが欲しいと言った。節約家の母は、「まだ使えるじゃん」の一点張りだった。違う。死ぬ気で勝ちたい。インターハイで自分のミスで負けた屈辱を晴らしたい。そんな気持ちで母にキレていたとき、当初人生で一番怖かった父が恥ずかしげに口を開いた。「買ってやってもいいんじゃないか」え???耳を疑った。父に買ってと頼める間柄でもなかったし、プレゼントなど貰ったことなど無かった。父は1万円を財布から取り出し、「これで買ってこい」とだけ言った。その1万円を握り締めて、キーグロを買った。試合中は常に父の思いが宿っていた。高校生活で最高のプレーができ、選手権全試合無失点で高校生活を終えた。

大学生になり、留学にいって欲しい親の反対を押し切って体育会サッカー部に入った。当たり前のように部費のラインを親に転送し、当たり前のように親のICOCAで電車に乗り、当たり前のように仕送りが少ないとキレ、それでも御殿場に行くと親の姿があった。嫌な顔一つしなかった。

お父さん、お母さん、本当にありがとう。面と向かって言えない間柄だから、部員ブログなんて書いたことない俺がわざわざ書かせてくれと頼んだ。柄でもないことは人生に数回しかないから染みると信じている。だから、サッカーが後少しで終わるこの機会でどうしても伝えたかった。
父さんは無口ながらも、大事な試合の会場には父の姿があり、心で応援してくれていた。金銭的な部分で僕の選択肢を消すことは一切なかった。今までほとんどプレゼントなんて買ってもらったことなかったけど、人生で最初で最後のプレゼントのキーパーグローブ、本当に嬉しかったよ、ありがとう。
父とは正反対に親バカで、優しいお母さん、数えきれないほどキレたり無視したり、弁当いらんとか言ったり。甘えてばっかだったけど、全部受け止めてくれてありがとう。弁当作ってもらっとけばよかった。もっと家でご飯食べたらよかった。これから車買っていっぱい送り迎えします。

サッカーでいろんな経験が出来た。父のような逞しく母のように寛大な人間になれるように、そして、少しずつ恩返しします。
サッカーありがとう。サッカーをするきっかけを与えてくれた兄ちゃんありがとう。サッカーを続けさせてくれた両親ありがとう。
二人の間に生まれてきてよかった。

サッカーの楽しさを教えてくれた幼少期、結果が全てだと、結果を追い求めた小学校時代、苦しみの先に見える絶景を知った中学校時代、与えられた環境で成長する大切さを教えてくれた高校生時代、立場に関わらず組織においての存在価値を追い求め続けた大学時代。本当に多くの経験が自分の価値形成につながった。もし今サッカーが楽しくなくても、なかなか思うように結果が得られなくても、成長出来るか出来ないかは意識次第。成功も失敗も、いつか自分の糧になる。そう信じて後輩には突き進んで欲しい。

「幸せとは、何かが欠けていること」だという名言を最近目にした。完璧なら幸せなんて感じない。なにかが欠けているから、それを乗り越えた時に幸せを感じるんだと。これを見たときに挫けそうになった時も欠けている自分をも愛そうと思えた。
現状として僕は、サッカー人生最後に初めてサブキーパーを経験している。下のカテゴリーでもいいから出たいと思ったこともあった。でも、社会人になるための試練だとか、早崎さんがここに置いている意味とか、自分の中で何度も噛み砕いた。出ている出ていないとか関係ない。GKのレベルアップのために龍典に(もちろんB2の2人にも)危機感を持たせる、ベンチからチームを鼓舞する、出番が回ってきたらチームを勝たせる、チームを安心させる、腐っていない自分を見せてチームに原動力をもたらす。どんな立場であっても、自分を成長させ周りに影響を与えることは出来る。この前出場させてもらったB2の決勝トーナメントの勝利は、本当に心から幸せだった。まだ俺のサッカー人生は終わっていない。どんな形であれ俺は死ぬ気で日本一に貢献します。

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