2015-11-20
私にとってサッカーは、遊びだった(棚田 威久海)
職業にならない限り、サッカーは遊びである。
私は、17年間、サッカーという遊びを続けてきた。こんなことを言うと、共にサッカーをしてきた仲間は怒るかもしれない、応援してくれている方は失望するかもしれない。自分たちとのサッカーは真剣ではなかったのかと、本気でサッカーに向き合ってはいなかったのかと。しかし、そうではない。遊びだったからこそ、真剣に取り組んできたし、本気で向き合ってきた。
私は、強要されてサッカーをしたことは一度もない。また、サッカーをしなければ生活ができないわけでもなければ、人間関係が築けないわけでもない。友達がいなくなることもなければ、所属するコミュニティがなくなるわけでもない。つまり、わざわざ選んで、好き好んで、サッカーをしてきた。だからこそ、私はサッカーが遊びだと考えている。では、なぜ、私は、数ある遊びの中からサッカーを選び続けてきたのだろうか。少し、考えてみてほしい。遊びを選択するとき、何を一番の基準とするだろうか。費用だろうか、物理的条件だろうか、もしくは、その遊びをすることによる成長度合いだろうか。違うはずだ。”楽しいかどうか”それが、一番の基準になる。
17年間、私のサッカーに対する姿勢の根底にあったのは、「サッカーが楽しい」そして、「もっとサッカーを楽しみたい」という、とても単純な想いだった。サッカーをすることによる楽しさは、他のどの遊びをも凌駕していて、何事にも代え難かった。そして、その楽しさは、自分自身がレベルアップしていく度に大きくなっていった。もちろん、レベルアップのための練習や競争は苦しかったし、辛かった。中学、高校時代には、弱小校に所属し、チームのことしか考えられない日々が続いたりもした。しかし、そんな時も、サッカーから離れることはなかった。何のために歯を食いしばって、何のためにチームのことで頭を悩ませてきたのか。答えは明確で、その方が楽しめるからだ。思い通りの場所にボールを止めて、思い通りの場所にパスができる方が楽しいし、試合に勝てる方が楽しいからだ。ただ、もっとサッカーを楽しみたい。それが、ここまでサッカーという遊びを続けてきた理由だ。
後一ヶ月と少し。そろそろ、サッカーという遊びともお別れだ。今になって思う後悔が少しだけある。大学サッカーを、もっと楽しめばよかった。思いっきり親の脛をかじって、思いっきり周りを巻き込んで、大学サッカーの意義や人間的成長なんて全く考えずに、もっと純粋に、ただサッカーだけを楽しめばよかった。神様はよく見ている。自分をごまかして、楽しくない大学サッカーを続ける理由を、無理やりサッカー以外のことに見出していた私に、怪我というプレゼントをくれた。おかげで、サッカーから離れる前に、自分がどれだけサッカーが好きだったのかに気づけた。
そういえば、私の好きな聖書の言葉にこんなものがある。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙 二 4章18節)思い返せば、奇妙で、辛くて、誰よりも楽しんだサッカー生活だったと思う。
4回生 棚田 威久海