2017-10-11
虹色のカラス (鈴木 浩一郎)
都会にひしめくサラリーマンやカップル、主婦たちを一瞬にして立ち往生させるゲリラ豪雨が今年は特に多かった。そんな豪雨も止んでしまえば今度は雲間から突き刺すような日差しが現れる。ふと、僕はその燦燦と降り注ぐ陽光の下で珍しい鳥を見た。ガードレールに降り立ったその鳥は黒い影のように見えたが、虹色の羽をもっていた。
その時初めて、カラスの羽が黒色ではないことを知った。
僕は大学生になって本(その大半は小説である)を読むようになった。本はまさしく言葉の宝庫だ。言葉は僕たちが他の動物との差別化を図るうえで欠かせない要素である。ちりばめられた数多くの言葉から、僕はある一冊の本に書かれたこんな言葉と出会った。
「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。」
この言葉によって、僕は、何か自分の中にあった霧が一気に晴れていくような衝撃を覚えた。
なるほど。だから僕はサッカーをしているのかもしれない。
・ゴールまでの道筋を逆算しながら戦術を組み立てる。
・繊細なドリブル、華麗なパス、豪快なシュートに陶酔する。
・目の前の相手との駆け引きに勝つ。
・これらすべてのためにただひたすらボールを追いかける。
サッカーの本然についてはおそらくこのようなことなのであろう。
しかし、ここから先はこれまでサッカーを続けてきた僕の主観的視点によるものであるが、サッカーの本質とは結局、
・隣にいる仲間と喜びを分かち合い、苦しみを共有すること。
・関わる全ての人の前に、考え、感じられることの共存があること。
にあると思う。
人と人のつながりが年を重ねるごとに複雑に絡み合い、これらが連鎖して人間関係の輪が構築されていく。競技人口や認知度等を鑑みると、これほどまでに贅沢なスポーツはないのではないか。
僕はやっとここまでたどり着き、この贅沢に気づくことができた。
これを書いている僕は今、大学四年生だ。そう、もうすぐ終わりを迎える。大学サッカーと、そしてサッカーとの別れが近づいている。
なぜか僕はキリスト教の大学へ進学した。おそらく僕以外の部員もこのような感じで入学していると思う。その経緯はさておき、キリスト教と密接に関わる生活は四年間でほとんどなかった。これではせっかくの新しい宗教文化を一瞬にして忘れてしまいそうである。そこで、最後にヨハネによる福音書の第十二章二十四節にある言葉を残そうと思う。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
僕たち四年生はここにあるような一粒の麦だ。ただ何となく、特に何もせずして過ごせばそこには形だけの存在しか残らない。一方で自分の持っている力を惜しまず出し切り、胸を張ってやり遂げたといえるほど尽力した時、そこには多くの人たち(ここでは観ている人すべて)の心に感動や憧憬が引き継がれていく。それは決して形だけの存在ではない。ただ一粒の麦であるか、豊かに実を結ぶ麦であるか。とにかく、残り数か月という限られた時間でやるしかない。
カラスが虹色に見えたのは羽の表面に構造色を持つためであるそうだ。構造色とは光の波長あるいはそれ以下の微細構造による発色現象のことだ。動物園で目を引く孔雀も同じく構造色を持つ鳥である。
孔雀のあの羽は単に美しさを表すためではなく、求愛行動のためであるという。つながりを求め、実を結ぼうとする孔雀の目的は、目で見て美しいと思わせるさらに一歩先にあるのだ。それは五感を越えた、第六感によって、気づくことができるのかもしれない。
男子チーム4回生 鈴木 浩一郎