2018-4-25
雑草の如く逞しく (降旗光星)
今年も春の訪れを知らせる美しい桜が咲いた。夏には向日葵が太陽に向かって大きな黄色い花を咲かせ、秋には綺麗なコスモスが、冬には可憐なシクラメンが咲くだろう。季節によって咲く華やかな花たちは、一際目立ち人々の目を惹く。
一方で、その隣にはいつも目立たない雑草が咲いている。大半の人は、華やかな花たちの隣に咲いている雑草には目もくれない。硬いアスファルトの間からも凛と自らの顔を出している。過酷な環境に耐え、踏まれても逞しく、力強く咲いているにも関わらず、雑草は名前すら覚えてもらえない。いつも下から羨ましそうに華やかな花たちを見ているのである。
私も雑草のような存在である。
故郷を離れ、伝統ある関西学院大学への進学を決めた。関学サッカー部には驚くほど華やかな花たちが咲いていた。かつて高校サッカーを沸かせた者、全国大会常連校出身者、日本一を獲った者、日の丸を背負って戦った者さえもいた。私の想像をはるかに越えた華やかな花たちが咲いていた。それを羨ましそうに見ていたのである。
スポーツ推薦で入学した訳でもなく、全国大会へ出場した事はない。県選抜に選ばれた経験すらなかった。では、卓越した技術はあったか? それも全く無かった。華やかな花にはなれない雑草であり、日々の練習について行くだけで必死だった。それでも華やかな花たちに追いつきたくて、毎日がむしゃらに頑張った。
追いつけないかもしれないと何度も挫折しそうになった。しかしそんな時、恩師にかけられた言葉を思い出した。
「雑草の如く逞しく、良い選手になれ。」
雑草は気付かれなくとも、枯れはしない。何度踏まれても立ち上がる。何があろうと負けず、どこであろうと力強く咲き誇る。 良い選手とは抜群に技術のある選手だけではない。当たり前の事を当たり前にでき、本当の意味で応援される選手だ。果たして私は挨拶は出来ているか、感謝の気持ちは持てているか、応援してくれている人の分もピッチ上で表現できているか?
本当にきついのは厳しい走りの練習ではない。自分たちが充分にグラウンドを使う為に練習時間をずらしたり、トレーニングが円滑に進むように、球拾いをしたり、そして、ピッチに立てずとも声を枯らして応援する人がいる事である。私たちのために必ず我慢してくれている人がいる。我慢こそが本当にきつい。
どれだけ頑張っても、ピッチに立てる人数は限られている。仲間が頑張った分も自分は戦えているのだろうか?それを理解した時、本当の意味で良い選手となり応援される選手となれる。この言葉は深く私の胸に刻まれている。
入部して約1年、C2からAチームへと上がるチャンスを貰った。しかし、私は華やかな花たちにはなれない、華やかなプレーも出来ない。たが、誰よりも体を張り、応援してくれる人達の分も戦う姿を見せて感謝の気持ちを持ち続け、プレーできる。不格好でも構わない。いつか自分なりの花を満開に咲かせるために、踏まれても何度でも立ち上がってみせる。
”雑草の如く逞しく”
男子チーム2回生降旗光星