2018-10-17
綺麗事は好きじゃない(松井詢)
綺麗事は好きじゃない。
その理由は、自分の無力さを痛感してしまうからだ。「夢は叶う」とか、「努力は必ず報われる」といった言葉をトップアスリートが聞くと、「うん、その通りだ」と思うだろう。しかし私の場合はそうは思えない。それは私がひねくれているからではない。その言葉を信じられるような成功体験がとことん無く、どこかで自分に限界を感じ、綺麗事に胸を打たれる事のない自分になってしまっていたからである。
つまり私のサッカー人生は、全てが道半ばで夢や目標が途絶える、中途半端なものだった。
小学校1年生からサッカーを始めたが、1度もキャプテンや副キャプテンなどを任された経験もなく、輝かしい選抜経験もない。それに加え、所属していたチームが良い成績を残した際の私は、出場時間がごく僅かであったりと、チームの結果に対する貢献度も限りなく0で、これもまた中途半端だ。
そんな私でも、現在までサッカーを続ける事ができた。なぜか。
それは、「後悔はせずに反省だけを繰り返してきた」からだ。
後悔とは、過去を悔いるだけだが、反省は、過去を踏まえ未来にどう繋げるかを考える事だ。
小中高の引退試合では、毎回悔し涙を流し、「あの時こうしていたら」と後悔だけをしていたと思っていた。しかしそうではなく、反省を繰り返してきたからこそ、現在に至るまで必死になって続けてこられたのだとわかった。そして気付けば、関学サッカー部に入部していた。もし後悔だけを繰り返していたのであれば、とっくにサッカーから離れているだろう。
そして反省の末、私が中途半端なのは、あくまでも結果だけだという事に気づく。
それ以降、過程へのこだわりを強く持つようになった。
後輩や同期に、「こいつのためなら、こいつとなら頑張れる」と思われるような姿勢を口と行動で全力で示し続ける事で、本当に価値のある勝ちを求めることにした。
これまで1人で結果を出し、誰ともその結果を共有せずに生きがいを感じた人はいるだろうか。私はいないと思う。
つまり、結果が出た時に自分と同じぐらい喜び、悲しむ人が多くいる事こそが生きがいだと気づいた。だからこそ過程へのこだわりで、共有する仲間を増やし、密度の濃いものになるよう努力した。
私の所属するC1チームはIリーグ最終節を勝利で終えたものの、グループリーグ敗退が決定した。サッカー人生最後の結果も中途半端だった。だが、悔し涙は出なかった。
メンバーに入れなかったり、公式戦が無いカテゴリーで日々努力し続ける仲間からすると、この結果に後悔して号泣するぐらいの気持ちはないのか。と思うかもしれない。
だがIリーグや日々の練習を通して、自分のこだわった全力の姿勢を十分に出した。その結果、リーグ終盤に負けて涙する後輩もいてくれた。その事が本当に嬉しかった。最終節の勝ちは本当に価値のあるものだと肌で感じることができた。
C1チームの後輩は、今年の私の姿をどう感じ取ってくれていたのだろうか。
他カテゴリーにいい刺激を与えられる存在になれただろうか。
それも含め、様々な挑戦は終わってからでないとその価値が分からない事が多い。しかし過程にこだわり、共有する仲間がいればどんな結果であれ、価値のあるものになる。
綺麗事は未だに好きにはなれないが、「夢」や「報われる」の本当の意味は何か。その捉え方次第では綺麗事も素敵な言葉になるのかもしれない。そう気づかせてくれた関学サッカー部という組織と、これまで出会った人に感謝している。そして何より、私のわがままを支え続けてくれた両親に心から感謝している。
まだ可能性のある関西学生リーグ制覇、インカレ優勝という目標に対し、最後まで姿勢でチームの原動力であり続け、全員で感動を分かち合い、関学サッカー部の活動を締めくくりたいと心から思う。
男子チーム4回生 松井詢