2015-12-18
最後に(井筒 陸也)
部員ブログなんて書いてる場合じゃない。真っ先に卒論に取りかかるべきだ、そんなことは分かってる。けれども書く。
中学生になるときも、高校生になるときも、そして大学生になるときも、サッカーを続けるかどうかを迷った。それでも続けてきた。
惰性の先にあったこの選択は、大学でサッカーを続ける決断をしたのではなく、高校でサッカーを辞める決断が出来なかっただけのことだった。弱い自分が情けなかったし、何よりサッカーに対して失礼だった。
だから「自分はなぜサッカーをしているのか」という疑問がいつも心の中にあった。考えてみると、この問いに答えるのは難しい。みんなはどうだろう。
150人の人生を背負う立場になって、この問いは自分だけのものではなくなっていった。
「サッカーを通して、部員は何を得られるのか」
「学生サッカーとは何のためにあるのか」
その意味を知りながら、サッカーがしたかった。ただやらされるのではなく、その意味を感じながら、みんなにはサッカーをしてもらいたかった。これこそ、卒論のテーマに相応しいと思う。しかしこれは部員ブログだ(号泣)
答えは「人間的成長」という言葉にある。聞き飽きていると思う。僕も言い飽きている。だけど今日も言う。
人間的成長とは何か。思うに、それは「自分と向き合うこと」から得られる。
自分という人間は欠点だらけだ。大学生にもなれば、ボールを扱う技術はもうそれほど伸びない。足も速くならない、背も高くならない。
自分がどういう人間か分かる。どれくらいの位置にいるか気づく。もしかしたら、自分の限界というものも何となく見えてしまうかもしれない。大学生とはそういう時期だと思う。
僕には呉屋と小林という同期がいた。何となく目の色が違って、サッカーでは勝てない気がした。僕はマネジメントで一番を目指そうと決めて、主将になった。
同じように、サッカーをやめて学生スタッフになる人がいる。Aには上がれなくても、BチームやCチームをまとめることに全力を尽くす人がいる。ベンチだろうが何だろうが、四年間サッカーに食らいつく人がいる。
全部正しいんだろう。自分自身の弱さに向き合い、それでも自分の存在を証明するために全力を尽くす。自分と、そして何よりチームのために。
学生サッカーの四年間は、人生の縮図だ。一年生のときは、何も考えず何も知らず、とりあえずサッカーをする。二年生になって、自分の弱さに気づく。自分で考えて、努力をするようになる。三年生くらいになると現実が見えてくる。厳しい決断を迫られることもある。時には何かを諦めることが必要かもしれない。それでも、自分の存在を証明することを止めてはいけない。自分の価値を高め、必要とされる人間にならなくてはいけない。四年生になったときに、何か一つ使命を持って生きるために。
自分と向き合う。自分を生かすために考え、決断し、行動する。自分の人生は自分で切り開いていく。
人生の折り返し地点にも届いていないし、社会にすらも出ていないけれど、きっと人生はこんな感じだろう。
学生サッカーの四年間はかけがえのない経験だった。自分と向き合うことの大切さを知った。この成長が、学生サッカーが僕たちに与えてくれたことで、そして学生サッカーの価値なんだと思う。
ただプロになるための通り道として、ただ好きなサッカーをやる場所として、学生サッカーがあるのだとすれば、それは余りにももったいない。この可能性に満ちた学生サッカーという場所を、最大限に楽しむべきだ。
そして何より、僕らが沢山のことを犠牲にしてやってきた、このサッカーというスポーツの可能性を願っている。自分の人生を懸けたサッカーが、自分の人生を素晴らしいものにしてくれると、心から信じている。
関学は今年、四つ全てのタイトルを獲る。学生サッカーには、人間的成長という可能性があることを世界に知らしめる。学生サッカーの可能性を拡大していく。
こうして長々と書いてきたことを、今までずっと僕は言葉で、呉屋はゴールで伝えてきた。大学サッカーは、僕らが入学する前よりも少しだけ良くなっていると思う。明日は呉屋がいない。明日は僕が最後の試合で、プレーで表現する。スタンドで観ている呉屋が嫉妬するくらい、良いサッカーをしてやろうと思う。
4回生 井筒 陸也