2017-11-25
私にとってサッカーはプレーすることが全てだった (山口 嵩弘)
「何のためにサッカーをするのか」
「サッカーは手段でしかない」
関学サッカー部に入部してから、このような言葉を幾度となく言われてきたし、言ってきたと思います。
2年前の入部説明会で当時の主将である井筒陸也さん(現・徳島ヴォルティス)が「ただサッカーがしたいからとか、今まで続けてきたサッカーを高校で辞めるのが嫌だから、といった気持ちで大学サッカーをするなら入部しなくていい。それならサークルなり社会人でやればいい。」とおっしゃっていたのを今でも覚えています。サークルや社会人チームのことを軽視しているわけでは決してないですが、今なら少しは理解できていると思います。
当時は、上記のことを言われても何もピンとくるものはなかったし、むしろ「サッカーはサッカーでしかないやろ。サッカーしたいからするんやん。」と考えていました。そういう意味では今年の一回生は少し怖いです(他意はありません)。
私は、去年の4月に大怪我をして2回生時には2ヶ月ほどしかプレーをしておらず、復帰約2週間後にはコンダクターという立場のスタッフとなりました。その約10ヶ月の怪我期間と今年1年間のスタッフとしての活動を通して、サッカー然りそれ以外の物事についての見方や価値観がとても変わりました。
今までは、チームが勝利しても自分のプレーが良くなければ全く嬉しくなかったし、他人のために頑張るプレーをするなんて考えられませんでした。
しかし、サッカーをプレーすることから離れて多くのことを学び、感じました。今では、同期が活躍しているのを素直に喜べるし、選手同士がプレーについてああだこうだと言っているのを見るだけで嬉しいです。
とはいえ、とてつもなくプレーしたいし、おれならもっと出来るのに、やるのにと思ったり、ピッチに立っている選手たちに嫉妬することだってもちろんあります。
そこである時こう考えたことがありました。なぜ今まで自分のためだけにプレーをしてきて、「サッカーはサッカーでしかない」としか思っていなかった自分が、プレーをしていないのに満足感があり、仲間の姿を見るだけで喜べるのか。おそらくですが、サッカーをする「目的」が見つかったからだと思います。自分は「感動するためにサッカーをしているんだ。」と改めて気づくことができました。私の中での感動とは「喜怒哀楽」のことで、力強い親子の物語や良い映画を観た後のよく言われる感動とは、少し違うと思っています。
勝った時の「喜」や「楽」といった感情だけでなく、上手くいかない時の「怒」や負けた時の「哀」といった感情、それらを感じるために自分はサッカーをしているんだと思います。サッカーには喜怒哀楽が存分に含まれています。だからこそ、あそこまで世界中の人々が熱狂し愛し、時には人生を賭けてまでサッカーと向き合うのだと考えています。
私は、海外サッカーではよく見受けられる、小さい子供から若い女性、老人の方といった様々な世代の人達がたった一つのプレーで熱狂し、チームが負ければブーイングをし、タイトルをギリギリで逃せば涙を流し、当たり前のようにキッズたちが相手サポーターを野次ったりと、そういう姿にずっと憧れています。あのスタジアムの熱気や空気、一体感は言葉にできないものです(実際に現地で体感したことはありませんが)。
そういったものを、関学サッカー部で成し遂げたいです。この文章が掲載される頃には、今年それが出来る機会はもうBチームのIリーグ全国大会しか残っていません。今年のBチームなら実現できると確信しています。私は今年のBチームが大好きです。あと1週間もすれば今年のチームが終わると思うととても寂しいです。今のこの時間がずっと続けばいいのにと考えてしまいます。
今年、Aチームがインカレに出場することができなかった、C1チームがIリーグ関西年間総合優勝決定戦に出場することができなかった、C2チームは公式戦の舞台で戦うことができなかった、女子チームもインカレに出場することができなかった、それら全ての悔しさを背負ってBチームは仙台で躍動してきます。私はそれを最高の準備をして後押しします。万全な状態で選手たちをあの舞台に送り出します。この3150(最高。最近流行りの若者の言葉、最高の語呂合わせ)なチームが最後まで3150であるように全力で戦います。そして私は、みんなの輪の中か一歩外なのかはわかりませんが、今までになく感動していたいと思います。
男子チーム3回生 山口 嵩弘