部員ブログ

2018-12-22
サンキューな!みんな!(南島彰人)

私の大学サッカー終了のホイッスルが、まもなく吹かれようとしている。「なじ〜!」と怒号を聞くのも無くなると思うと、少し寂しくも感じる。みんなと馬鹿したりするのも無くなると思うと、本当に寂しい…。
何より第4フィールドでみんなと汗水流しボールを追いかける事が無くなると思うと、泣きそうになる…。

私はサッカー部での4年間が本当に濃いものであったと感じる。1回生の頃、大きな自信を持ち入部するも、気がついたら1番下のカテゴリーにいた。2回生の頃は、Bチームですら中々試合に出れない日々が続き、3回生の時には、Iリーグで日本一を経験した(ちなみに、高校の時にも2回日本一になりました)。4回ではトップチームで試合に出場でき、インカレという舞台で戦う事ができている。苦難の方が多かった4年間ではあったが、私は「与えられた場所で全力を尽くす」この軸を大切に過ごした来た。これだけは自信を持って言える。

そうやって頑張れたのは、スタンドから聞こえる声援、Iリーグで頑張るみんな、KGリーグで頑張るみんな、そしてスタッフとして働いてるくれているみんながいたからだ。そんな姿こそが私の原動力であった。私が頑張れたのは間違いなく関学サッカー部があったからだ。最後は私がみんなの原動力となれるよう、いかなる立場であろうと全力を尽くす!
これが私のみんなへの感謝の体現である!

ありがとう関学!
ありがとうサッカー部!
ありがとう可愛い後輩たち!
ありがとう最高のスタッフ!
ありがとう最高の同期!

最後に言わせて欲しい。

サンキューな!みんな!

男子チーム4回生南島彰人

2018-12-19
阿頼耶識(山口嵩弘)

「コンダクターってなんなんやろう…」

毎年、関学サッカー部は、2回生が学年ミーティングにて、コンダクターという役割のスタッフを決める。

ぼくも2年前に選手をやめてコンダクターになった。

この疑問にこの場を借りて、「コンダクターとは何か」について、ぼくなりの答えを述べたいと思う。

「コンダクター?ってなにするん?」
とサッカー部でない人から、よく聞かれることがある。
いつも決まって「学生コーチ兼トレーナーみたいな感じかなあ」と答える。まあ、間違ってはいない。事実、チームの練習を考えたり、メンバーを決めたり、テーピングを巻いたり、怪我人のリハビリを一緒に行ったりと、それはもう多岐に渡る。

だが、この答えにいつも違和感があった。
「果たして本当にそうか?」と。いや、そうやけど違うよね、と。

ぼくはコンダクターとは、一言で言うと「引き出す人」だと思っている。
それは、意識、感情、想い、そして能力さえも。

選手の課題に対して選手自身が克服するように働きかける。土足でその課題に踏み込むのではなく、選手自身が選手自身の力で、その課題と向き合うよう、強い覚悟を決められるようにすることだと考えている。

そしてチームと、学年と、サッカー部と、社会と、向き合っていく。そしてその過程で自分と向き合い続け、自分の新たな可能性すら引き出せるんだと思う。

そこから先は、もう無限に広がっている。なんでもできるし、何にだってなれる。自分の思うままやればいい。自分のしたいことを思い描いて覚悟を決めてやればいい。

「決断には51%のメリットと、49%のデメリットがある」というぼくの好きな言葉が意味するように、自分の道を自分で正解にしていけばいい。こんなことに気付かせてくれた。

ああ、なんてコンダクターは最高なんだろう。大学サッカーってこんなに素敵なんだろう。

とまあ、こんなええ風なこと言うてますけど、コンダクターになった当初は苦しかったんです。

プレーできないことがこんなに苦しいことだとは。なんで選手をやめたんだ。なんでプレーしていないんだ。選手としてピッチに立って、日本一になるんじゃなかったのか。おれって何者なんだ。何ができるんだ。何がしたいんだ。それでも最後は自分で決めたじゃないか。いや、でも…でも、でも、でも…。

毎晩のように考え、泣きじゃくり、泣き疲れて、いつの間にか寝る。それがずっと続いた。
心が折れそうになった。一緒にコンダクターになった、けんととこうだいが羨ましかった。キラキラして見えた。嫉妬だってした。
なんなら、嫌いだったかもしれない。

正直、地獄だった。目の前が真っ暗だった。
そう見せないようにグラウンドで振る舞うのも、ストレスだった。

でも、そんなとき光が射した。
隣を見れば必死に闘う仲間がいることに気がついた。

誰よりも早くグラウンドに来て、練習の準備をする。誰よりも遅くまでグラウンドに残って、自主練をする。誰よりも声を出してチームを引っ張っていく。たったひとつのプレーに対して熱くなり、意見し合い、時には喧嘩する。

そんなみんなにとっての、当たり前で、特に気にも留めない、何気ない日常が、そのちっぽけな瞬間が、みんながサッカーに没頭している姿が、ぼくにとってはマリア様のようだった。

それは大袈裟だと、みんなは思うかもしれないけれど、みんなの存在がぼくにとっての原動力なんです。みんながいるから頑張れるんです。みんながいないとダメなんです。

暇人暇人と揶揄されますが、それを見るために、ぼくはグラウンドによく出没するんです。

グラウンドには、やっぱり色々な発見があります。宝物が、夢がいっぱい落ちています。日常の中で見つけたぼくの宝物を少しだけ紹介させてください。

Iリーグも終わり、C1、C2、C3チームで行われるKGリーグも終わり、インカレだけとなった11月後半のある日。練習が終わった後も、いつもと変わらず黙々と自主練に励む選手がいた。C3チームのキャプテン伊瀬竜一である。

C2、C3チームはIリーグに出場できない。その中でも文句一つ言わず努力を続けてきた。チームを引っ張ってきた。少しでも1ミリでもサッカーが上手くなるために努力を続ける。
ああ、なんて輝いて見えるんだろう。

こちらも、IリーグもKGリーグも終わった、C1チームのコンダクター西田健人。残すはインカレとなった時期にも、C1チームの4回生がサッカーから心が離れないように、少しでもサッカーが上手くなるために、どうすればいいかを、考え続けていた。自分だってすごくしんどくて、悔しいはずなのに。
ああ、なんて輝いて見えるんだろう。

もっともっと宝物はあるのですが、長くなってしまうので、ぼくの宝物紹介はここまでにしたいと思います。

そして、いつも多大なる責任と、期待と、プレッシャーに煽られながら、闘うAチームのみんな。毎試合毎試合、187人の想いを背負って闘うことは本当にキツい。だけど、それがAチームなんだよな。 そしてみんなにはそれをやりきる力がある。楽しむことすらできる。だって、みんなはおれの誇りだから。

でも、キツくなったらスタンドに仲間がいるよ。ベンチには、おれが座っているよ。
ね、みんなとなら大丈夫。

おれらにしかできないことがある。それをみんなで成し遂げよう。そして思いっきりサッカーを楽しもう。今に没頭しよう。共に闘う人たちと。

さあ、またみんなで走ろうか。

男子チーム4回生山口嵩弘

(この文章は法政大学戦前に書かれ、本日投稿予定だったものです)

2018-12-16
勝つことの難しさ(髙尾瑠)

  4年間で初めて部員ブログを書くことになった(2年生のときにインカレで負けてお蔵入りになった)。書きたいものがたくさんありすぎて、何を書こうか迷ったが、関学で自分しか経験できなかったことを伝えたいと思う。

私は、1年生の時に四冠を経験した。入学当初から開幕スタメンで出させてもらい、小さい頃からの夢だった、プロサッカー選手にもなることができた。正直、順風満帆な4年間だったと思う。

そんな4年間で1番私が感じたことは「勝つことの難しさ」である。当たり前だと思うかもしれないが、1年生の当時は、大学生との試合の中で負けたのは立命館大学だけで、結果の面から見ても、今との差が顕著に出ている。だからこそ、勝つことの難しさをより一層感じた。

今と何が違うかと考えた時に、私は練習の質の差を挙げる。もちろん、その当時の選手の能力は高く、1年生の時の私は、ただひたすらにただがむしゃらにワンプレーワンプレー本気でプレーをしていた(なぜかと言うと怖い先輩が大声で怒ってくるから)。どの相手と試合をするよりも、練習の方がレベルが高く、緊張感もあった。

3年前の4年生は、このような練習の雰囲気を毎回作り出していたことに、4年生になって気付いた。そして、3年前とは違う尊敬を抱いた。

今その雰囲気を作り出せているかはわからないが、キャプテンの藤原を中心に、毎週ミーティングをし、より良くなる方に試行錯誤してきた。最初は課題だらけで、大した案は出てこず、早く帰りたいと言う人もいたが、樹が辛抱強くチームの為に頑張ってくれたおかげで、良いチームが出来上がったと思う。

そして、4年間のラストの大会、インカレが始まった。関学には1年の時から良い思いをさせてもらってきた。大学に入り、関西の洗礼を受けながらも、素晴らしい仲間達に出会うことができた。大学4年間の集大成として優勝し、関学に恩返しをする。

最後に今まで支えてくれた家族にありがとうと伝えたい。中学、高校の時にやる気ないプレーを見せて、恥ずかしい思いをさせてしまったことを未だに後悔しています。大変だったと思うけど、送り迎えをしてくれてありがとう。これからも応援よろしくお願いします。

男子チーム4回生髙尾瑠

2018-12-15
いつも通り(藤田大輝)

この4年間はあっという間だった。入部2週間でCチームからBチームに上がれたこと、2回生の春にサイドバックにコンバートされたこと、リーグデビューがほぼノーアップだったこと、人生初の長期離脱に数々の体調不良。全てが最近のことに感じるほど、あっという間だった。

そうこうしているうちに、大学サッカーも残すところ、あと1週間で終わってしまう。

この少ない残りの期間で、自分は何ができるだろうか。それはいつも通りを貫くことだけだ。周りが少しでも楽になれるようにその分、自分が苦しいことをする。これが自分にとってのいつも通りであり、同時にこれまで関学サッカー部で実践してきたものだ。今までの、マイペースで自分のペースを乱さないという性格に加え、自分の状況や感情よりも周りの要求に優先して応える。そうして自分をコントロールできるようになった。

面倒臭いと思うような頼み事も嫌がらず引き受ける、何されても嫌な顔しない、周りが楽できるよう自分の体力を削ってドリブルでボールを運ぶ、悠樹に囮に使われるとわかっていながら、オーバーラップをする。誰でもできるがしたくないプレーの積み重ねで、自分より勝利に直接的な貢献ができる人の余力を残し、チームを勝利に導いてもらう。それが自分にできることである。樹のようにチームを引っ張ったり、克哉のように得点を決めてチームを勝たせたりすることに比べると、ちっぽけかもしれない。しかし、貢献度の問題ではなく、関学サッカー部のために何ができるかを考え、行動することが大事だと思う。

このチームを勝たせたいというより、このチームで勝ちたい。そのために遂に 始まったインカレでもいつも通り自分らしくプレーする。そして必ず日本一を獲る。

男子チーム4回生 藤田大輝

2018-12-14
最後のチャンス(妻鹿寛史)

私は高校時代を、島根の立正大学淞南高校で過ごした。お世辞にもとても素晴らしい3年間だったとは言えない。1、2年の頃は試合に出られず、常に応援の日々を過ごし、「妻鹿くんにキーパーはできない」とまで監督に言われ、フィールドプレイヤーをしていた時期もあった。

精神的に幼かった私は、「フィールドができる。ゴールを決められる。」と喜んでいた。紅白戦でFWとして出場し、ボレーシュートを決めたことは、今でも忘れられない。今、考えればただのバカでしかない。

2年生の冬の選手権に負けて、当時の3年生が引退し、新チームが始動した。もちろん、私はAチームでスタートできるわけもなく、1番下のチームだった。そこからなんとか這い上がり、3年生ではトップチームの試合に出続けることができた。

当時の私は、関学サッカー部に入るどころか、高校でサッカーを辞めようと考えていた。そのため、進路希望表は全て指定校で提出していた。しかし、同期の仲間が関学のセレクションを受けることになったので、それにくっつくように私もセレクションを受けに行った。
その時は、地元に帰省できるし、ついでに大学のサッカーのレベル見てきたろ、という程度に考えていた。

しかし結果は、本命で狙っていた仲間は落ち、あろうことか、私が受かってしまったのだ。こうして私は関学サッカー部に入部することができた。

入部してからは、B→C2→C1→B2→B1→A→B1→Aという波乱の4年間を送って来た。カテゴリーが上がった時は、日頃の練習が評価されたというより(そういう面ももちろんあるのだろうが)、怪我人が出て、その穴埋めで上がるか、ダービーで上がるかのどちらかしかなかった。強運の持ち主なのか、と自分でも思うぐらい運良く進んできた。

4回生になり、卒業後はプロになりたいと思っている。最初は、自分は運が良いからなんとかプロにもなれるだろうと考えていた。しかし、プロはそんなに甘い世界ではなかった。運だけで生きてきた私は、本当にちっぽけな人間だと思い知らされた。もっと早く現実と向き合い、自分に矢印を向けていれば、この段階でプロが決まっていたかもしれない、違う形の幸運が転がってきたかもしれない、と後悔している。

ただ、幸運なことにまだ後悔を取り返せるチャンスが残っている。

今シーズン、関学は全員の力でインカレ出場権を獲得できた。インカレでは後悔するつもりはない。そしていつも必死に応援してくれている人に恩返したい。

今まで、ミスをしても負けてもやってくることができたのは、どんな時もみんなが応援してくれたからだ。どんな時でも声をかけて支えてくれ、時には厳しい指摘もしてくれた。本当にみんなには感謝している。

インカレはそんな最高の仲間と一緒に戦える最後の舞台だ。みんながいてくれるだけで、負ける気がしない。インカレは、思い出作りでも運任せでもなく、今まで支えてくれた全ての人に、日本一という最高の結果で恩返しをする。そのために死ぬ気で戦う。

関学全員の力で必ず日本一を獲る。

男子チーム4回生 妻鹿寛史

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